認知論的コミニュケーション論

2002/10/04 初稿


はじめに

認知心理学とは

認知心理学は、実験心理学の一分野で、行動主義心理学の対抗として生まれてきたものです。

行動主義心理学とは、よくあるねずみの実験のように、対象となる相手(被験者)が何を考えているかはわからない(直接確認できない)という事を前提に、被験者が何を考えているかはいっさい考慮せず、単純に、ある条件下での刺激(入力)に対する反応(出力)を観察し続ける事で、対象を研究しようと言う方法の心理学的一手法です。科学と言うのは本来、いつ、どこで、誰が行っても、必ず再現する客観的に分かる結果だけを元に組み立てようと言う方法論ですので、これは賢明な一つの方法論です。

これに対し、認知心理学の手法は、対象である被験者の内面を考慮します。被験者が、内部で何を考え、どういう仕組みでその結論に至ったのかを考えた上で、刺激(入力)に対する反応(出力)が起きたのかを理解しようとします。これにより、より正しく、正確な対象への理解を得ようとするものです。しかし、一般的には被験者の内部の状況を、客観的に、かつ直接観察する事はできません。従って、これらの考察は、あくまで想像、仮定の域を出ません。そのため、次のような手段を使って、より確からしい考察であると判断する事とします。

すなわち、まず一連の刺激(入力)ー反応(出力)から、被験者の内部で何が起こっているかを考え、内部モデルを作成します。次に、このモデルに基づき、このモデルが正しいとしたら、こういう刺激(入力)を与えれば、こういう反応(出力)が起きるはずだという予想をした上で、実際にどうなるかを実験して観察します。その結果と予想を比べ、一致すればそのモデルはより正しいらしいと判断し、異なっていれば、その結果を説明できるようにモデルを再検討します。こういうプロセスを続ける事で、より正しいと思われるモデルを作成する事が出来ます。このようにして対象である被験者の事を理解しようとするのが認知心理学です。

これをいくら繰り返しても、所詮は仮説の域を出る事はできません。しかし、他の分野の科学の進歩により、例えば脳神経生理学上で、認知心理学での知見を実証するような結果も得られてきています。

認知心理学と認知科学

このように、認知心理学とは、対象である被験者の内面を、主に心理学的に考察しようとするものです。認知科学は、この考え方を元に、例えば人間と同じような方法で情報を処理するコンピュータを作ったりしようとするものです。これは逆に、ある仮定の下で作った仮想の被験者(コンピュータ)と、実際の被験者に対して、同じ刺激(入力)を与えてその反応(出力)を観察する事で、対象である人間自身に対してより理解を深める事が出来ます。人間と同じ仕組みで働くコンピュータを作る事で、逆に人間自身をより知る事にもつながるのです。

こうして作った処理装置(コンピュータ)は、特定の分野では、従来型(ノイマン型、プログラム方式)以上の成果を上げているものもあります。

認知論的コミュニケーション論

はじめに

さて、認知論的な考え方に基づく、コミュニケーションについて考えてみます。

コミュニケーションの本質は何でしょうか。普通は情報のやりとりのような定義になるかもしれません。ここでは、考え(概念)を相手に、正確に伝える事、としましょう。これを双方向に考えれば、やり取りになります。

言葉とは

さて、考え(概念)とは何でしょうか。普通は、考えは言葉(言語)を使って考える事から、考え(概念)の最小単位は言葉(言語)であると思われるかもしれません。しかし、よく考えてみて下さい。ボールが頭に当たったとき、「痛い」と思わず言うかもしれません。しかし、『いたい』という言葉を感じたのでしょうか?そうではなく、恐らくもっと言語以前の根源的な『何か』が生じ、それを習慣的に言語に翻訳する事で、「痛い」と思ったのではないでしょうか。

言語と思考

言葉によって、実際、人間はより複雑な概念を組み立て、社会を高度に発展させてきました。

ある新しい概念を、言葉によって理解する事も多々あります。しかし、それによって逆に、考え(思考)を言葉によって左右されてしまう事もあります。

これは、例えるなら、標準語と方言の関係に似ているでしょう。ある考え、感情を、標準語で表現すると、うまく表現でない、何か違うと思うのに、方言だと、まさにぴったり、ということを思う事はないでしょうか。言葉は、どうしても既存の言葉で表現せざるを得ず、それが逆に知らず知らずのうちに、自分自身の考え(思考)にも影響を与えてきます。こういうデジタル(離散的:ぴったりではなく、近いどれかに合わせなければならない)な性質を言葉は持っていると思います。

言葉が思考に影響を与えると言う面では、言葉の多義性という観点からも見る事が出来ます。ある考えを表そうとしてある『言葉』を使います。しかし、言葉には、通常、幾つかの意味を合わせ持っています。あるいは、単純に『明るい』、『暗い』とか、『積極的』、『消極的』とかいうような、本来の意味とは別の、『語感』というものもあります。本来は単にその『意味』を表すためにその言葉を使ったはずなのに、いつのまにか『語感』に引っ張られてしまうことがよくあると思います。

固体差

「あなたの見ている『赤』という色は、私の見ている『赤』とは違う」という認知心理学での言葉があります。『赤』と言う色は、物理的には特定の波長の光(電磁波)ですが、それが目(網膜)という感覚器官を刺激して電気信号に変わり、神経を通って最終的に大脳内のどこかでその信号が『赤』であると判断されます。Aさんの赤に対する電気刺激の反応と、Bさんのそれが必ずしも正確に一致するとは限らないのです。つまり、ある色が『赤』であるという判断は、その人の神経系がある刺激パターンに「これは『赤』である」という意味付け、ラベル付けをしているだけなのです。Aさん、Bさん、Cさん…が、同じ物理的な光のパターンに対し、同じ『赤』という意味付けさえ出来れば、実際に頭の中でどんな刺激に変わっていようとも、社会的には問題ないわけです。

コミュニケーションとは

考えを伝えるということ

これらの事を元に、コミュニケーションはどういうものなのかをまとめてみます。

まず、話し手に、伝えたい事(概念)が存在します。理想的には、それをそのまま聞き手に伝える事ができれば一番いいのですが、残念ながらそうはいきません。

分かりやすく、例えてみましょう。

話し手の頭の中には、伝えたい事(概念)である、『家』があるとします。例えですから、驚かないで読んで下さい。『家』のモデル(模型)でもいいですし『家』そのものでも構いません。まあ、仮想空間が頭の中にあって、そこに『家』があると想像して下さい。話し手にとってその『家』は、正に伝えたい事(概念)そのものであり、文字通り、手に取るように感じています。

理想的にはこの話し手の頭の中にある『家』を、そっくりそのまま聞き手の頭の中に、移す、もしくはそっくりのコピーを作って持ち込む事が出来れば、正確に伝えたい事(概念)を伝えることが出来るでしょう。しかし、実際にはそのような事は不可能です。

現実的には、話し手、聞き手の頭の中の『仮想空間』を出たり、そこに入ったりする事は、極めて狭い入り口と手段しかありません。それが、『言葉(言語)』です。話し手の頭の中の『家』を、一旦分解し、『言葉』という形式に変換して聞き手に伝え、さらに聞き手はその『言葉』から元の『家』を自分の頭の中で再構築しなければなりません。これは一般的には大変な作業です。また、悪い事には、言葉を伝える際に、外部要因(ノイズ等)により、言葉自体が正確に聞き手まで伝わっていないかもしれません。

共通のルール

『家』を一旦『言葉』に分解すると説明しましたが、むしろ、言葉に分解すると言うよりは『作業手順』を伝えると言い直した方がいいかもしれません。『言葉』として直接相手に伝えるものは、『家』を再構築するための『作業手順』というわけです。

『家』を組み立てるには、適当に行っては効率がよくありません。そこで、共通化した部品やルールを使います。釘、各種木材の部材、畳、レンガ、等々、幾つかの標準化された部品や、畳の数で部屋の広さを決める等の尺貫法などのルールがあります。これにより、伝えなければならない『作業手順』が大幅に簡単になります。これがいわゆる『言語』と言うわけです。

『言語』を使う事で、正確な部材の大きさをいちいち表記する必要がなくなり、伝えなければならない情報量が飛躍的に減少します。また、中途半端な長さはめったにないため、そういう面でも簡単になります。コミュニケーションという面で言えば、共通した『言語』を使うということで、気付きにくいですが、かなりの効率化がなされていると考える事が出来ます。

ルールが違うということ

さて、使っている『言語』が違うと言う事は、どういうことでしょうか。すなわち、『家』を作るための部品やルールが異なると言う事です。例えば、尺貫法やメートル法に対するインチみたいな感じでしょうか。単位が違えば、数字だけ同じにしても、大きさが全然変わってきます。また、実寸を同じにしようとすれば、できない事はありませんが、実に中途半端な数になって、作業効率が落ちてしまいます。あるいは、ある地方では木を主体に家を造っても、別の地方では石やレンガを主体にするということもあり、同じものを再現するのは非常に負担になるかもしれません。それでも、おおまかな部分の再現は何とかなるでしょう。しかし、微妙な部分に行けば行くほど、話し手、聞き手双方の頭の中の『家』は、似て非なるものになっていく事でしょう。

見えないルール

更に、それ以外にも見えない違いが出てきます。様々な地理的、歴史的な事情により生まれ、育まれてきた『慣習』的なものです。例えば、日本の家では入るとき、通常は靴を脱いで入りますが、欧米では脱がない事が多いです。また、日本などの家では南に面した窓をよく作りますが、南半球では北向きになります。あるいは、普通はトイレは家のどこに置くとかいう事など、様々な慣習的ルールがあります。これは通常、地理的、歴史的な背景に基づいた、意味のあるルールです。仮に全く同じ『家』が奇跡的に聞き手の頭の中に出来たとしても、それを見て思い、感じる事は、話し手が考えていたものとは異なってしまう事も十分あります。

伝えることとその後のこと

このように、家をどうやって組み立てるかという狭い意味での『言語』の違いと、背景にある文化などの影響を受けた慣習的な広い意味での『言語』の違いを区別する事が出来ます。

狭い意味での『言語』では、異なる言語を使ったとき、正確に変換(翻訳)することは難しく、簡単には基本的な事、大まかにしか伝える事が出来ません。無理に正確に変換しようとすると、例えば話し手の一言が、受け手では膨大な単語数に増えるなど、困難が付きまといます。

また、仮に困難を克服して、正確に変換(翻訳)、伝える事が出来、聞き手の頭の中に、全く同じ『家』を再構築できたとしても、文化、習慣の違いにより、受け手にとってはとてもおかしな『家』として感じるかもしれません。これを防ぐためには、単に『家』だけではなく、背景の文化、慣習の情報も伝えなければなりません。これは大変な作業です。

コミュニケーション

目的

さて、コミュニケーションの目的は何でしょうか。いろいろ考えられますが、第一義的には、自分の頭の中にある考え『家』を、相手の頭の中に正確に同じに作ってもらう事でしょう。その家を見て、相手がどう感じるかは、その後の話であり、まず、『家』を見てもらう事が必要です。そのためには、何に注意したらいいでしょうか。

ルールを知る

相手に正確に同じ『家』を作ってもらうのですから、こちらから勝手に伝えても正しく伝わらないかもしれません。まず、相手の基本的ルールを知る事が大切でしょう。例えば、同じ『日本語』という『言語』を使っていたとしても、同じ釘や板を使っているとは限りません。まず、相手がどのような言語体系を使っているかを確認する必要があります。しかし、簡単にはそれはできません。あるいは同じ『日本語』を使っていると言う事で、逆にそのあたりの確認が疎かになってしまう事もあるかもしれません。

残念ながら、一言で相手のことを知る事は難しいので、やり取りが重要になってきます。一方的に話すのではなく、相手からの応答を聞き、自分の使っている言葉や概念の意味が、相手にも同じ意味になっているのかどうかを、注意深く、慎重に、確認しながら話す事が必要になります。もし異なる点が見つかったら、それを意識し、別の言葉や概念に置き換えて話すなどの工夫が必要となります。そういった注意をしながら行う事で、ようやく相手の頭の中に自分の考えである『家』を作ってもらう事が可能となります。

聞き手側の注意

聞き手側にも注意すべき点があります。

まず、先にも述べた様に、双方が同じルール、言語で話している事を、常に意識して確認する必要があります。もし、自分の持っているものと意味が異なるようであれば、直ちにそれを相手に伝え、確認し、共通の言葉、ルールで話せるようにする必要があります。

また、場合によってはこれと対立すると思われるかもしれませんが、まず、相手の言う、相手の伝えたい『家』を正確に組み立てる事を優先する必要があります。あなたの常識では、そんなところに扉はつかないとか、そこにトイレがあるのは変だとか、そう思う事もあるかもしれません。しかし、そこではまず相手の伝える『家』を構築する事を優先しましょう。言葉の性質上、少しずつしか情報は伝える事が出来ません。今はおかしいと思っても、やがて、他の部分の情報が伝わってくればおかしくなくなるかもしれません。あるいは結局、おかしい部分が残ってしまうかもしれませんが、そこが、話し手にとっての新しい部分、重要な部分かもしれません。

まず辛抱強く相手の話を聞き、『家』を構築する事に専念しましょう。その結果、出来た『家』がやっぱりおかしいのであれば、そこで初めて「ここがおかしいのでは」と伝えましょう。ともすると、途中の「トイレの位置」がおかしいというところで中途半端な議論になってしまい、重要な相手の新しい部分に到達できないかもしれません。

これは大変勿体ない話です。

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鎌田勝浩
kamada@kil.co.jp
2002/10/4 初稿