自動人形(オートマタ)は機械仕掛けの夢を見るか

鎌田勝浩 作
2004/9/13 初稿


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あとがき、解説

※注意:本稿には、ネタばれが含まれています。本編小説を先に読まれる事をお勧めします。

この短編小説について

この作品は、第3回アニマックス大賞に応募するために書かれたアニメシナリオを、形式変更して加筆修正し、小説の形にした短編小説です。元になるアニメシナリオは、「ロボット」をテーマに、およそ30分から45分程度の作品になるようにとのものでした。

また、この作品は、元になるシナリオは筆者にとっての初めてのシナリオ作品であり、それを小説化したこの小説も、同様に初めての作品になります。

元々、漠然と、いつかは映像作品を作ってみたいと考えていました。しかし、特に専門的な技術を学ぶ等の経験を積んで来ていないので、あり得るとすれば、稼いだお金を投資して、プロデュースする事くらいではないかとも思っていました。ところが、ある日、たまたまCATVを見ていると、「あなたのシナリオをアニメ化します」というCMを見かけました。これが「第3回アニマックス大賞」募集のCMでした。映像表現の一形式として、アニメーションにも注目していた事もあり、思ってもいなかった「シナリオ」という形での実現可能性に驚き、たまたま時間が取れそうだったので、応募してみる事にしました。

そういうわけで、応募するのは、賞に選ばれる事が目的ではなく、運が良ければ自分の作品をアニメ化してくれるかもしれないという可能性のためでした。従って、作品も、与えられたテーマの範囲で、自分が見たい、作ってみたいと思うものを目指しました。そのため、作品は、アニメにありがちな子供向けではなく、大人向けの、ジュブナイル風SF作品になりました。

本作品のねらい

本作品の元になるアニメシナリオを書くにあたっての狙いは、次のようなものです。

まずは、SF(Science Fiction)作品にしようということです。筆者が元々SFが好きだったということもありますが、最近多い、ともすると何でもありになりがちなファンタジーにはしたくありませんでした。最低限の科学的な想定を除いて、当然にありそうな、もしそういう世界があったとしたら、こんな世の中になるだろうというシミュレーションとして物語を作る。そういうSF作品にしたいと考えました。

次に、テーマである「ロボット」です。ロボットと言えば、いわゆる“ロボットもの”と言うものがあります。スーパーロボットとか、リアルロボットとか、巨大ロボットに搭乗して、敵と戦う、というのが相場です。でも、そういうありふれた物ではつまりません。また、敵を作ったり、それと戦ったりするのもしたくありませんでした。

他のロボットの出てくるジャンルとしては、例えばドラえもんのように、等身大の友達型のロボットというものもありました。

さて、ロボット、と言うと、何を想像するか、どんな特徴があるか、という事を考えてみました。巨大ロボットであれば、“力”を象徴すると言えるでしょう。このジャンルを使わないとしましたので、他のものを考えます。そうすると、鉄腕アトムの時代から、“自分で考え、自分で行動する”という点があります。いわゆる、「人工知能」というジャンルになります。SFに相応しいテーマです。あるいは、素直な目で見る事で、人間なら引っかかるような、錯覚や騙しに、図らずも引っかからないという見方も出来るかもしれません。

そういった考えを元に、本作品を構成しました。

あらすじ

では、本作品をあらすじで振り返ってみます。

主人公、高校生の筑波博は、ある日、等身大人型ロボットのソノミを作り上げます。自宅地下の研究室でソノミを訓練する主人公。そんなある日、主人公は不思議な夢を見ます。年上の見知らぬ女性、園美と会っている夢でした。やがて、ソノミは日常生活に支障がないまでに成長します。

ある日、主人公はソノミと街へ出ます。楽しい時間を過ごしますが、帰り道、ソノミは突然、山へ行きたいと言い出します。

翌日、その山へ向かう主人公とソノミ。山を歩いていると、一行は道を外れ、ある洞窟に向かうことになります。道すがら、洞窟に近づくに従って、何度も頭に浮かぶイメージ。洞窟に入り、過去の事実を思い出す主人公。自らに向かい合い、真実を取り戻します。

気がつくと、現実の世界でベッドに眠っていた主人公。いままでの世界は、事故で昏睡していた主人公の夢の中の世界でした。

客観視点でのあらすじ

ここで簡単に客観視点での話の流れを年表形式で整理してみます。

1985:(つくば市にて科学万博が開かれる:早稲田大のワボットなどが展示)
1986:筑波家に男の子生まれる。つくば博に感動した親が、博と名付ける
2002:博、高校に入学。腐れ縁となる大穂穣と出会う
2003:博、クラス替えにより桜園美と出会う。いろいろあって恋人同士となる。
	夏に山へ初デートのハイキングに行き、偶然あの祠を見つける
2008:博たち大学卒業。博は大学院に進学。(夢のデートシーン)
2018:博、穣らの協力で新型ロボットを開発。起動事故発生。
	事故から4週間後、園美、博の精神世界へ突入。
	事故から1ヶ月後、博、帰還。

これが、基本設定です。

物語としては、次のようになります。

起動事故で大切な人(園美)を傷つけ、失ってしまったと思い込んだ博が、世をはかなんで現実に戻る事を拒否し、楽しかった高校時代の世界に閉じこもってしまった。その世界には、事故を思い出す園美が存在しない以外は、普通の世界だった(ただし、多少記憶が混乱して、その当時存在しないものも一部存在していた)。

事故で昏睡したまま覚醒しない博を呼び戻すため、園美が彼の精神世界(夢世界)に侵入したが、そこでは博が作っていたロボットの体を借りてしか存在できなかった。しかも、ロボットのソノミ自体は、園美と別人格となっていた。

博は無意識に(あるいは園美の干渉により?)事故の元になったロボットを製作し、やり直していた。また、園美の存在が抜けた穴を、ロボットのソノミで埋めようとしていたとも言えた。

という感じで、後半部で高校時代の夏を追体験する事で、自分に向き合い、自分を取り戻す、という話です。

また、違う観点から言うと、ありがちな遠い未来の荒唐無稽な、というか、どうやったらそんなものできるんだ、というロボットではなく、数年、十数年後、近い未来に本当にできるかもしれない、そこそこリアリティのあるロボット像を示しているSFでもあります。

で、もう一つの視点は、博と園美の、15年にわたるラブストーリでもあります。

技術的解説

実は昔、筆者は人工知能系の研究者の卵で、ニューラルネットを応用して、いずれ本当にソノミみたいなロボットを作ろうと考えていたこともあります。作るとしたら、こんな姿にしたい、こんな風になるのでは、というのがソノミです。まあ、厳密に言えば、物語を面白くするために、多少、無理な描写もありますが。

2005年現在、人型で二足歩行が出来るロボットが現実にいくつか開発され、存在しています。しかし、そのほとんどは、工夫を凝らして発見した、決まりきった計算方式(アルゴリズム)によって、強引な力技での計算によって実現しています。とりあえず、限定された環境下では動作しますが、環境条件が変わると、また研究のやり直しになります。

実際の人間では、手足の全ての動きをいちいち頭で、すなわち大脳で計算して動いている訳ではありません。自分の過去を振り返ってみて分かるように、二足歩行にしても、例えば自転車に乗る事にしても、最初は意識的に手足を動かしていたかもしれませんが、出来るようになれば、そんな事を考えなくなります。ただ、「歩く」、いや、「前へ行く」とかしか考えないはずです。脊髄の反射とか小脳の働きなどでそれを行っています。

また、“自分で考える”という、いわゆる「人工知能」という面で言えば、現状では全然そこまで至ってはいません。やはり工夫を凝らして発見した「アルゴリズム」を使って行おうという方式が主流ですが、どうも壁に当たっているような状況のようです。

これらの事を行うのに、別の道、別の方法として、「ニューラルネット」を活用して行おうというのが、本作品内での方法です。元々、生物的に作られた神経細胞(ニューロン)、それで構成された大脳や小脳などによって、実際に人間や他の生物は動いている訳ですから、原理的には可能なはずです。ただし、現状では、ニューロンの個別の動作原理はある程度分かっていますが、それをどのように構成していけば、二足歩行できるシステムや、“自分で考える”大脳システムが出来るかというところまでには至っていません。そこに至るまでには、大きな学術的、技術的なギャップがあります。つまり、まだ出来ていませんし、どうすれば出来るかも分かっていません。

ただし、本作品はSF作品ですので、そのギャップを乗り越えられたとしたら、という想定をする事が出来ます。そうして生まれたのが本作品です。つまり、現状の科学技術、科学的知見では決してソノミは作れないが、いずれは、当たらずとも遠からずのものが出来るかもしれない、という意味で、一概には嘘とは言えないのです。

ただ、本作品の根本的な設定であり、大部分の舞台は、主人公の「夢の中」という事になっています。この設定が、少しファンタジックになっており、そういう意味ではSF作品としては少し弱くなっている部分ではあります。

哲学的視点

人工知能を主題にする作品には、伝統的に注目されるテーマがあります。「自由意志」の問題です。人工的に作られた“人工脳”が、外から見て普通の人間と、その言動の区別がつかない場合、その“人工脳”には意思があり、考えていると言えるのでしょうか?意思があり、考えていると言えるとする立場と、あくまで計算であり考えているとは言えないという立場があります。

また、心と体は一つであり、分けられないとする立場と、心と体は別々であるとする考え方もあります。

例えば、自動車を考えたとき、人が自動車を運転すると、その動きには意思を感じ、意志を持って自律して動いていると言えると思いますが、人が乗っていないときは動きません。例えば、アクセルペダルを押すと、加速するかもしれませんが、機械としての車には意思はあるでしょうか。

いわゆる巨大ロボットを考えると、もっと分かりやすいかもしれません。人が搭乗するタイプの巨大ロボットは、操縦者が搭乗して操縦している場合には、外から見て、あたかも意思を持って動いているように見えるかもしれませんが、ロボット自体では動けません。もし、人の脳が巨大ロボットのコクピットでしかなかったとしたら、人工脳を作るだけでは意思があって自分で考えるロボットは出来ないかもしれません。

逆に、車に乗ると性格が変わると言われる人がいます。車に乗って運転をしていると、自分が車に乗っているのを忘れ、車自体が自分の体、手足のように感じることもあるでしょう。燃料警告ランプが点灯すると、急いでガソリンを補給しなければならないと焦り、冷静でいられなくなる事もあるかもしれません。

本作品内では、少なくとも大部分の舞台である主人公の夢の中の世界では、ロボットのソノミは、実は人間である園美がある意味で操縦しているとも言える状態にあります。また、ロボットのソノミの意思が即ち、人間の園美の意思では必ずしもないように描写しています。これは、意思の元である“心”、意思の下で動かし世界に干渉する“体”、そしていわゆる“魂”を考えた時、“魂”が“心”を動かし、“心”が“体”を動かすが、それぞれは必ずしも自由にはならないという哲学的、あるいはある意味で宗教的な意味を、そこから見出す事が出来るかもしれません。

どこまで読者、もしくは視聴者が見出す事が出来るかは分かりませんが、本作品ではその辺りまでの視点を含めて、描写しているつもりです。

終わりに

さて、作品としては、このような解説を読まないと理解できないものであれば、それは作品、表現として失敗と言えるでしょう。しかし、解説を読む事で、より理解が深まる事もあるでしょう。

本作品は、最初に読み、実はほとんどの世界が主人公の夢の中の世界だったのだと最後に知る事で、もう一度最初から読み直してもらう事を期待し、一粒で二度おいしい作品を目指しました。そのため、表現を特定せず、敢えて曖昧にしている部分もあり、初見と二度目以降で、異なる印象を持ってもらおうとしています。それによって、逆に分かりにくくなっているところもあるかもしれません。

実際のところ、本作品を読んでみて、どうでしたでしょうか。理解は出来ましたか?そして、楽しんでいただけたでしょうか?

本作品を読んでみての感想、批評等、何でも構いませんので、筆者にいただけたら嬉しいです。今後の反省材料にもなり、励みにもなります。是非とも、お便り下さい

よろしくお願いします。


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鎌田勝浩
kamada@kil.co.jp
2005/5/23 初稿