私の学業について、公式、非公式な内容で、簡単にご紹介しましょう。
小学校時代、よく本を読んでいました。今もそうですが、不思議なことを知ることが好きな子供でした。科学図鑑を読んで、電池を開けて炭素棒を取り出して電気分解の真似事をしたりしました。学研の科学は愛読書でした。また、電子工学に目覚め、電子工作をしたり、アマチュア無線の免許も取ったりしました。コンピュータに触れたのもこのころが最初です。どちらかといえば、体育は苦手でした。でも、よく草野球をやったりしていました。
中学に入ると、マイクロコンピュータを作り始めました。友達に教えてもらった、近くの大学生協の書籍部に、コンピュータ関係の本を探しによく行きました。とはいえ、そればかりやっていた訳ではなく、部活動(バレーボール部、後に部長)もやっていたし、生徒会活動(会長)もやっていました。
高校は、理科系が専門の理数科に進みました。このころは、中学時代から作り始めていたマイコンが、そろそろ動き始めた時です。仮想記憶の原理を理解しようと頭を抱えていたりした時代です。当時も、やはり部活動(バレーボールを1年間)をやったり、応援団、学園祭の取りまとめの総務局(局長)をやったりと、いろいろでした。
大学は、茨城県の筑波大学の情報学類というところで、コンピュータサイエンスを専門に学びました。ソフトウェア、ならびにハードウェアとも学ぶコースで、1年次から専門教育がありました。元々、「人工知能」を学ぼうと入学したため、その他にも、「生理学」、「大脳生理学」、「学習心理学」などの興味のある講義も受講していました。
このころ、パソコンを購入、自宅でPascal, Lisp, C, Prologなどの言語を使って、いろいろなことをしていました。大学の実習を自宅でもしていたこともありました。
大学では勉強を教わろうとする意識があまりなく、生意気にも研究者の端くれとして、対等に考えていました。(^_^;)
4年次の研究室は、「視覚情報処理研究室」、略してVIP研究室というところを選択しました。学科で一番コンピュータから離れたことをやっている研究室の一つです。元々は文字どおり視覚の仕組を、コンピュータ仕掛けの実験器具を使って実験し、研究するというところで、部屋の片隅に「アイカメラ」があったりしました。コンピュータを「使って」、研究する研究室でした。
私が入ったころは、ニューラルネットワークで連想記憶を主に研究していました。ニューラルネットワークは、一時ブームになり、今でもニューロファジーとかいうキーワードが家電あたりで有名ですが、その元になるものです。人間の脳を構成している神経細胞「ニューロン(neuron)」そのものの動作原理を研究し、人工知能(AI)を目指そうというのが、荒っぽい説明です。
研究にもいろいろなレベルがあり、ニューロンそのものを研究、人工的に作ろうというもの、そのニューロンをつかった構造を模索するもの、特定の機能を実現しようとするものなどなど、いろいろなレベルがあります。連想記憶では、どちらかというと、ニューロン自体はある動作を仮定し、その結び付きの構造である特定の機能(連想記憶)を実現しようとするもので、ニューロン、構造の中間あたりの位置付けになります。
当初私はこの連想記憶機能を使って、構文レベルで自然言語の構文解析あたりを手がけようとし、言語構造に関する言語学部などとの合同原書勉強会などに出席していたりしていました。その後、「ニューロン自体のディジタル回路での構成」という課題が持ち上がり、担当することとなりました。
この回路の利点としては、
その後、工学研究科電子情報工学専攻に進み、研究を続けました。先のディジタルニューロンを、もっと大規模に作成してその動きを見ようと言うことで、ASIC化を検討しました。危うく私がASICそのものの設計まで担当するところでしたが(^_^;)、その後、日立製作所中央研究所との共同研究ということで、プロの方にASIC化の設計、製作、試作機の試作までしていただきました。その際、非同期回路だとASIC化しにくいということで、基本回路を同期型回路に変更しました。
結果、全部で50素子(ニューロン)が、相互に接続できる試作機ができ上がりました。これを使い、基本性能、基本機能、および、拘束条件充足問題の一つである「巡回セールスマン問題」を解かせる課題などを行い、効果を確認しました。ただし、構成方法が、巡回都市数の自乗個のニューロンが必要な方法をとったため、7都市での巡回問題にとどまった。
この後、本来は博士課程5年一貫コースでしたが、修士相当の資格修得後、2年で途中退学し、就職しました。